協奏曲〜コンチェルト〜
開け放たれた窓から入ってくる温かな風が、髪をなびかせ頬を撫でる。資料の本のページがパラパラとめくられ、慌ててそれを手で制す。
「これで丁度ひと段落ってところかしら・・・?」
頬に掛かったオレンジ色の髪を掃い、目の前に積まれた資料の山をじっくりと隅から隅まで見渡す。一通り見終わると「ふぅ」と息をついた。
一息ついた直後、誰かにトントンと肩を叩かれた。
「カシル、私はもう終わったわよ。あなたも早く・・・・・・え?」
振り向きざまに発した言葉は、後を向き終えると同時に途切れた。背後に立っていた人物を見たまま思わず硬直する。
「ブブー、ハ・ズ・レ!私はララナよ。ごめんなさいねシア、カシルさんじゃなくて」
ニコニコと楽しそうに微笑むララナを前に、シアの頬はみるみる赤くなっていった。
「そっかぁ、二人はいつだって一緒にいるのね〜・・・気づけばいつも傍に、ってやつかしら?」
「だ、だからそんなんじゃなくて、カシルはいつもその辺でお昼寝しているから、つい間違えちゃっただけですってばぁ!///」
「顔真っ赤よ〜、可愛い可愛い!そんなに否定しなくたってわかってるから」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
顔を赤くしながら必死に抗議するシアに、ララナは実に楽しそうに微笑を向けている。
ララナはハイビスカスという花の精霊で、肌や髪の色が薄桃色で統一されているのと浮いているのを除けば、外見はほとんど人間の女性と変わらない能力の高い精霊である。もともとここの支部で活動していた彼女は、三日前に派遣されてきたカシルやシアとよく組むようになっていた。そして純情なシアをからかうのも日課になりつつあった。
「ほらほら、お茶でも飲んで!せっかく私が入れたんだから、冷めちゃったらもったいないでしょう?」
心地よいハーブの香りを感じながら、ララナはゆっくりカップを口へ運んだ。シアも赤くなった頬を誤魔化すようにお茶を二口飲む。程よい苦味が身体全体に染み渡っていくかのようだった。
「あっ、シアじゃないか!久しぶりだなぁ、大きくなっちゃって!」
突然窓の方から元気のいい声が届いた。そして「ちょっと待ってろ」という言葉と共に駆け足の音が右後方へ移動していく。一階にあるこの資料室は外と扉一枚で出入りできるため、その人物はそちらに向かったのだろう。すぐにバンと激しい音がした。
「アハハ、本当に久しぶりだなぁ。シア、元気だったか?」
「ヒューゴ兄さん!?ここに配属されていたの!?」
「あら、二人とも知り合い?」
室内に入ってきたのはシアよりも五つ程年上の青年だった。血色のいい肌と元気な声は性格をそのまま映しているようだ。背が高く肩も広い彼は、神官服の袖を二の腕まで捲くり上げ、襟のボタンも一番上を外して比較的楽な格好をしている。
突然現れた彼にシアは目を丸くし、ララナは落ち着いた様子でカップを口に運んでいた。
「知り合いも何もこいつは大事な妹同然だからな」
「ふ〜ん、同然ってことは血は繋がっていないってことね?」
「えっと、ヒューゴ兄さんは私が王殿に配属される前、よく世話を焼いてくれていたんです」
戸惑いながらも嬉しそうに説明するシアの頭をぐりぐりと撫でながら、ヒューゴはシアの隣に腰を下ろした。手には資料らしきものがいっぱいに握られている。
「いやぁ、たまたま資料運びのパシリさせられていたら窓からこいつが見えたんだもんな。ラッキーラッキー!二年ぶりだったか?立派になりやがって」
「ヒューゴ兄さん、頭、痛い、もう」
「本当に兄妹のようね。シアが歳相応の顔する人なんて数少ないもの」
ララナは微笑ましい光景をしばし見守ることにした。今はだいぶましになったものの、それでもまだ歳相応の表情を見せるのは限られた人だけであるこの少女の貴重な姿を。
(この子の境遇を考えれば、わからないこともないのよね・・・)
「そういえばどうしてお前がここにいる?王殿での勤務はどうした?」
ふとヒューゴは思い出したように手を打ってシアに問う。
「出張みたいなものかしら?私はカシルのサポートをするためについて来たのよ」
「おお、カシル殿も来ているのか!あとで挨拶がてらまた稽古でもつけてもらうかな?」
「そうそう、シアったらさっきも私とカシルさん間違えてね・・・」
「ちょっ、ララナさん!だからあれはいつもの癖みたいなもので、つい!///」
シアは再び頬を染めて必死に弁解しだした。今度はララナにくわえヒューゴまでもが楽しそうに笑う。ララナの目が獲物を捕らえるように鋭く光った。
「もうシアったら、そんなに真っ赤になんなくたっていいじゃない。いつも一緒にいるってことは仲がいいってことでしょう?それっていいことじゃない?恥ずかしがる必要なんてないわよ。それともカシルさんのこと嫌い?」
「そんなことありませんけど・・・///」
「だろうなぁ、カシル殿を呼び捨てで呼べる神官なんてそういないもんな?」
「ヒューゴ兄さんまで、からかわないで」
ふくれるシアの顔をヒューゴは微笑ましそうに眺めている。とても優しい目で、まるで想いを馳せるように。
今でも十分細い分類に入るが、数年前までは今よりもまだ痩せていて、雰囲気も少し尖っていた彼女を遠い日に感じる。
「シア、お前本当に頑張ったよ。『蒼空の魔女の末裔』って肩書き、堅苦しかったろ?」
「ヒューゴ兄さん・・・」
ヒューゴはかすかに目を細め、優しくシアの頬を撫でる。シアも戸惑うことなく大人しく撫でられ、ララナはゆっくりカップを口に運んだ。小さな沈黙が流れる。
「シーアー?そっち一段落したらちょっとこっち来てくれない?」
飄々とした声が沈黙をやぶった。ヒューゴは手をシアの頬からテーブルの上へと戻す。三人が声のした方を振り返るとカシルが窓からひょっこり顔を出していた。
「あれ、ヒューゴこっちに来てたんだぁ!久しぶり!元気だった?」
「カシル殿、ご無沙汰してます!丁度一年前に配属されたんですよ、これが」
「そっかぁ、じゃあまだここじゃ新人ってわけだ」
「そうなんですよ、みんなにパシられっぱなしで!あ、また後で稽古つけてもらえます?」
「かまわないよ。こっちの用も終わったらね」
先ほどの静かな雰囲気とは一転、ヒューゴはカシルとテンション高々に会話している。カシルにいたっては窓から身を乗り出し実に楽しそうだ。
「カシル、私ならもう区切りいいところまで終わらせたからいいわよ。さ、早くいきましょう?」
「オッケー・・・・・・って、何をそんなに急いでんの?」
シアはさっさと資料をまとめ、脇に置いてあった本を一冊手に持つと足早に出口に向かった。しまいには外に出ると窓のところで待っていたカシルの腕を掴み、「早く」と急かしながらその場を後にした。
お茶を挟んでハイビスカスの精霊と人間の青年が残された。青年はポカンと口を開けて呆然とし、精霊は「チッ」と軽く舌打ちをした。
「シアってば私にからかわれると思って、核心人物であるカシルさんをさっさと連れていったわね。まったくこういうことには勘がいいんだから」
「なるほど・・・・・・」
納得したように頷く。程なくして駆け足の足音がこちらに向かってきた。そしてバンと窓枠を叩く音が聞こえた。
「ヒューゴ兄さん!私、『蒼空の魔女の末裔』って肩書き、いらないなんて思ったことないの!だってそれを含めての私であって、もしも私が普通の女の子なら今の私はここにいない、今ここには居られなかったって思うから!心配してくれてありがとう、これだけ言い忘れていたから」
シアは窓からヒューゴに向かって叫び終わると、踵を返して走り出した。彼女はこれを言うためだけに戻って来たのだった。
「『蒼空の魔女』・・・約二千年前、そう呼ばれていたオレンジ髪の魔女。彼女は強大な力を持ち、並大抵の術者では足元にも及ばなかったと云われている」
「そう、そして始祖である彼女の一族の末裔がシア・・・・本当に大変なところに生まれちゃったものよねぇ。かつては強大な力を保持していた一族も時が流れるうちに、今じゃ平凡な一般人よりちょっと力がある程度にまで衰えてしまったわけだし」
「ま、もともと血筋とか跡継ぎとかにうるさくない一族だったっていうのも、大きな原因ではあるがな」
シアを見送った後、ヒューゴとララナの二人は冷たくなったお茶を入れなおし、また向かい合うように座っていた。それでもヒューゴの視線は、シアの居た窓に向けられたまま。
「くわえて十年前の『魔女狩り事件』・・・ヒューゴ、あなたなら今笑っていられる?」
口調は軽くともララナの視線は手にしたハーブティーに向いたままで、表情はなんの感情も映していなかった。時折カップを揺らし、出来た波紋を目で追っている。
ヒューゴは少し考えた後、首を横に振った。
「『蒼空の魔女の末裔』という肩書きだけでも才能がどうこうってレッテルを貼られるうえに、遺伝された力は実際かなり微量。十年前のあれはトラウマもいいところだ」
「普通はそうよね。でも、あの子は今笑っているわ、幸せそうにね」
幸せそうに・・・そう、今の彼女は本当に幸せそうに笑っているのだ。思わずヒューゴも首を横に振ってしまうような過去を背負ったうえで、彼女の優しい微笑みは消えるどころか、むしろ日々光を増していくように。
「あいつは本当に強いなぁ・・・いや、乗り越えたのか」
「そうね、あの子も普通の女の子だもの。支えが出来てやっと乗り越えられたってことね、きっと」
ララナの言葉にヒューゴは向き直って苦笑いをした。一言「そうだな」と肯定の返事を返し、ハーブティーを一口飲む。カップから口を離してもう一度窓の方を見た。
銀髪の少年の笑顔と、横でふくれているオレンジ髪の少女の姿が見えた気がした。
「本当、シアにとってあの人はどれだけ大きな存在になっているんだろうな?兄貴のような立場としてちょっと悔しいよ」
「あら、それはカシルさんにとっても言えることよ。シアは気づいてないけど」
一拍置いた後二人はくつくつと笑い出した。今まで散々「良く頑張った」と感心していた少女の意外と鈍感ぶりが可愛いやら可笑しいやらで、つい口から笑いが漏れてしまったのだ。今まで深刻な話をしていたぶん、余計にこのワンクッションは大きく柔らかかった。
ふと、ヒューゴは窓の向こうの空を眺めて呟いた。
「でも、『蒼空の魔女の末裔』っていう肩書きがもたらすのは、才能云々のレッテルだけじゃないんだよな・・・」
「はぁ・・・・・・って、また溜息出てる!」
両頬をバンバンと手で叩き、気合いを入れなおす。この溜息、本日五回目。背後の木が情けないと笑うように、風に揺れてざわめいている。
神官見習いこと日浦奏は先輩神官セーラの言いつけで術の訓練に励んでいたのだった。
言いつけと言っても物腰の柔らかいセーラの声は優しく、癒しの効果さえがありそうだが、今の奏にとってそれはあまり意味を成さなかった。どうしても三日前の話と、書庫で背中合わせで座っていたカシルとシアの姿が頭から離れない。下手に思い出そうとすればまた涙が出そうになる。そんな心の葛藤が溜息を生んでいた。
そんな奏を見てセーラは、気分転換にと外での術練習を提案してくれたのだ。
「せっかくセーラさんが気を遣ってくれたんだから、ちゃんと集中しなくちゃね」
声に出してみるものの、やはり言葉とは関係なしに三日前の光景が頭をよぎる。これでは集中して術の訓練なんて無理だ。一度思考を落ち着かせようと休憩がてら木に寄りかかった。広い中庭を見渡して大きく息を吐く。
「変えられない運命なんて・・・私に何が出来るっていうのよ」
時間は刻々と過ぎていき、ここへ来てもうすぐ一週間になる。本当に時間が流れるのは早い。でも、カシルの余命を知らされてからは尚更早く感じるようになった。
「カシル君が消えちゃうまで、もう二ヶ月と二十四日しかないじゃない・・・」
そしてカシルとシアの関係が消えるのも同じ二ヶ月と二十四日。むしろそちらの方が大きくて重大のように感じている。本当に幸せそうだった二人だからこそ、二人を見ていて自分も優しい気持ちになれたからこそ、ずっとそれが続けばと願ったからこそ、未来の想像はしたくなかった。こればかりは今二人がいないことに感謝してしまう。
「でも、これって逃げなのよね・・・わかってるけど、じゃあ私はどうしたらいいの?」
膝を抱え込み、顔をうずめる。
運命という言葉を信じるのなら、奏が今この状況に立ち会っているのも運命なのかもしれない・・・それはとても悲しくて、切なくて、重くて、それでもどこか尊いようにさえ感じられた。
カシルに連れられてきた海岸線。
「シア、砂に足を捕られて転ばないようね。それともオレが担ぐ?」
「余計なお世話よ!これくらい自分で歩けるわ」
彼のいつもの冗談に私もいつものごとくむきになる。反射的に返す反応はやはり怒った口調だった。「心配してくれてありがとう」など間違っても出てくることは無い。
前方で担ぐ動作をして飄々と笑う彼は時折冗談を交えながら、やや後を歩く私を気にかけてくれている。ちゃんとその優しさに気づいているはずなのに、素直にお礼の言葉が出てこないのは何故だろう?思えばいつもそうだ。何度も心では繰り返しているのに、それが口から表に出ることは数少ない。どうして私は―――
ズルッ!
考え事に集中していたら見事砂に足を捕られた。ぐらりと身体が傾く。視界の上にあった空がどんどん面積を増していった。
「きゃあっ!」
思わず声を上げるものの尻餅をつくことはなかった。代わりに背中に支えを感じ、目をぱちぱちとしばたたかせる。まもなく上から声が降ってきた。
「さすがシア、言った直後にやってのけちゃうんだもんな。危なかったねぇ、オレが傍にいてラッキー」
「むぅ・・・・・・ちょっと考え事してただ―――」
『二人はいつだって一緒にいるのね〜・・・気づけばいつも傍に、ってやつかしら?』
「//////っっ!」
「シア?どうした?」
ララナの言った言葉が頭の中で蘇った瞬間、シアの顔はみるみる赤くなっていった。こう助けてもらうのは初めてのことではないのに、ララナが言った一言のせいで変に意識してしまう。普段はこんなこと無いのに。
不思議そうにカシルがシアの顔を覗き込むが、シアは赤くなっていることを自覚している分、目を合わせずについ俯いてしまっている。
「な、何でもないわよ!えっと、その、助けてくれてありがとう!///」
「どういたしまして・・・・・・って、シアってば顔真っ赤だぁ」
「ここ、これは、な、何でもないって!///それよりも、そろそろここへ来た理由教えてよ!」
何とか誤魔化そうと必死で話題を変えた。普通の会話に戻ればきっとこの顔の赤みも引いてくれるだろう。そんな望みから出た言葉はシアの気持ちを知ってか知らずか、見事話題を逸らしてくれた。カシルが「むぅ」と唸って話し始める。
「そういえばまだ何も話していなかったか。実はこの間の集会のとき、五年ぶりに帰ってきた同僚に会ってね、水の化身でつい最近まで海の底に滞在していたんだよ。本人はそのせいだって言うんだけど、悪魔の存在や今の状況を知らなかったらしくてさ、そこでちょっとおかしいなって思ったわけ」
「おかしいって?」
やっと赤みの引いたシアが問いかけると、カシルは腕を組みなおしてシアの目の前に人差し指を突き出す。まるでここからが肝心だと言わんばかりに。
「いくら水の中って言ったって、よくよく考えてみれば悪魔は生物じゃないんだから呼吸も必要ないし水圧だって関係ない、なのに海には現れなかったって変じゃないか?地上では大量に出現しているのに。ギオはあれでも自然王の補佐なんだから、水の中に居ればその水が繋がっている隅々まで感覚が行き届く。でも気がつかなかったんだ」
「ということは海には出現していないってこと、でしょう?たしかにそう言われれば変よね、まるで海になにかあるみたい」
「そう、それ!だからオレは海図を調べて実際にここまで来たんだ。ギオが何も感じ取らなかったんだからきっと何も無いし何も起きていない、でもそれ故に何かあるって確信したから」
「確信・・・・・・」
銀髪が潮風になびき、瞳の鮮やかな青に掛かる。見え隠れする瞳は真っ直ぐで、曇りのない様は本当に氷のように綺麗だった。思わず見入ってしまうかのようなこの瞳が、シアは好きだった。瞳の色は同じはずなのに、何故こんなに違うのだろう・・・
「そんなわけで・・・・・・って、シア?」
「えあっ!ご、ごめんなさい、何でもないの、大丈夫!ちゃんと聞いているから///」
「そお?なんかさっきから変だけど、ララナあたりに何か言われたとか?」
一瞬ぎくりとする。カシルはこれで鋭いところがあり、何の気なしに核心をついてくるのだ。これに助けられたこともあるが、今は逆に迷惑極まりない能力だった。顔色から覚られないように慌てて背を向ける。
「別に何も言われてないわよ!///それより、早く行くんじゃなかったの?」
「・・・・・・シアってつくづく素直だよなぁ」
「何か言った?」
「いいや、何も。それじゃあ行こうか、この後ヒューゴの稽古もつけなきゃいけないし」
再びカシルは歩き出した。シアの数歩前を、速度を変えずに真っ直ぐ歩く。空を飛ぶことだって出来るのに、彼はあえて歩くのだ。その理由をシアは知らない。
シアもカシルの後について歩き出す。視界はまた空の青と砂の白と彼の背中が映っていて・・・・・・あれ?
グッ!
「!・・・どうしたんだ?シア?歩くの速すぎた?」
「ううん、何でもない・・・またちょっと、足を捕られちゃったから」
つい口から出たのは嘘の口実。気づいたときにはシアはカシルの左腕を掴んでいた。
一瞬、ほんの一瞬だけ、彼の背中が消えてしまうような、そんな気がした。そう思ったら自然に腕が伸びていたのだ。おかしな予感もあるものだと、ぐらぐらと揺らいでいる心を落ち着かせる。自分は何故こんなにも動揺している?
「シア・・・・・・」
ズドドドドドドドーン!!!
カシルの呟きは強烈な爆発音でかき消された。砂塵が舞い上がり、視界を奪う。
「何、今の!?」
「くっそ、砂で目が開けられない!!」
視界が利かないうえに激しい風の音で気配を探ることも難しい。カシルはシアを庇いながら必死で周囲に注意を張り巡らせる。すぐ横を何かが掠めた。
「シア気をつけろ、何かいる!」
「え!?」
やがて風は収まり、視界ももとに戻っていく。前方にうっすらと人影のようなものが見えた。それも一つではなく、影は三つ存在していた。
「誰だ!?」
「『誰だ』だなんて悲しいなぁ、僕もあなたと同じ仲間ですよぉ」
「そうそう、そんなにいきり立つなよ、ちょっと手荒い挨拶になったがな」
一人は十代半ばの少年、一人は二十代後半の青年、そしてもう一人は三十代前半の男だった。しかし少年の赤い髪や青年の尖った耳を見れば、外見年齢など当てにならないことはすぐにわかる。人間ではないだろうことも。
「へぇ、でもオレこんな物騒な仲間には面識ないんだけど?それとも新入りの精霊さんとか?」
「ハハハ、失礼なことを言うねぇ。我々はあなたと同じ化身だよ、低俗な精霊なんかと一緒にしないでくれ」
「な!?」
三十代の男が言った言葉に耳を疑った。奴は確かに今、化身と言い放ったのだ。自然界に生まれた化身はみな自然王のもとで補佐として役割を果たす。しかし同じ化身であるカシルには面識の覚えが無い。
「さらに訂正するならば新入りでもない。我々はあなた方と違って自然王に随っていないのでな」
「自然王に随わない化身、だと?」
「そうですよ。ちなみに僕の名前はスイ、で、こっちのおじさんはルイ」
「俺はテイだ。覚えといてくれよ?カシル」
説明されればされるほど警戒は強くなっていった。自然王に随わない化身とは何者なのか?何故今ここに姿を見せたのか?何故いきなり攻撃を仕掛けてきた?いくつもの疑問が頭を埋め、思考を遮る。ただわかることは、この者たちは自分達に害をもたらす存在であること。三人の身体から放たれている殺気がびりびりと伝わってきた。
「で?その自然王に随っていない化身達がオレ達に何の用?」
「いきなり攻撃してくるってことは、よっぽど迷惑な用事ってことよね?」
いつでも動けるように身構え、三人の化身達に問う。ふいにスイが一歩進み出た。
「あれ、人間の女の子だ。オレンジ髪なんて珍しいじゃん、魔女か何か?じゃあさっき僕が盗ったこの本は術書でしょうか?」
スイが掲げたのは先ほどまでシアの腰に下がっていた本だった。ハッとなってシアは腰に目をやるが、やはりそこに本はなかった。いったいいつの間に?
「返して!」
「ええ〜、どうしよう。でも人間って本当に不便な生き物ですよね?こんなものがなくちゃ術を使えないなんて・・・あっ、そうだポチ!」
スイがパチンと指を鳴らすと、岸の反対側にある森から黒い影が飛び出してきた。それは漆黒の毛に覆われた四足の獣姿で、背には大きな翼を携えている。低い唸り声を上げながらゆっくりとスイに近づいていった。
「よしよしポチ、いい子だ。じゃあこれを持ってどこかお散歩に行っておいで、急いで帰ってこなくていいから・・・さっ!」
「ああ!!」
スイはポチと呼ばれた獣にシアの本をくわえさせると、馬ほどもある身体を軽々と持ち上げて森の奥へ向かって投げ飛ばした。獣の姿は小さくなり、やがて遠くの方で木の揺れる音がした。
「さあどうします?このままじゃ術が使えないけど、取りに行く?」
「あなたいったい、何てことするのよ!?」
「アハハハハハハハ!」
怒るシアを嘲笑うスイの声は高らかに響いた。シアは拳を握り締め、スイを睨みつける。
「あなた達はいったい何が目的なの?手荒い挨拶だけじゃないんでしょう?」
「いいだろう、そろそろ教えてやる。我々の目的は・・・」
ダン!
ルイの言葉が終わる前にテイが踏み込んできた。カシルはシアを抱えて後方に跳躍する。
「邪魔者になりうるお前達の排除だ!」
鋭く伸びたテイの爪をすれすれでかわす。爪は空を切ったもののテイは休まずにもう一度踏み込んできた。今度は頬を軽く掠める。
「邪魔者になりうるって、いったい何の!?」
「導きの旋律を今直されちゃ困るんだよ!」
「!?」
テイの言葉に一瞬だけ動揺した瞬間、頬に鋭い痛みを感じた。カシルの頬から赤い鮮血が飛び散る。とっさに地面に手をつき、力を込める。
「はっ!」
巨大な氷の柱が何本も砂を突き破って出現する。出現時の衝撃にテイはうろたえ、体勢を立て直すべく後退した。
幾つもの氷の柱はまるでバリケードのように、三人の化身との空間を遮断した。巨大な氷壁に阻まれたテイは、大して困ったふうには聞こえない口調で「まいったな」と漏らす。
一方氷壁の向こう側では思考をフル回転させ、急いで体勢を立て直す二人の姿があった。
「カシル!」
「ああ、オレの推理もあながち間違っちゃいなかったってことだ。オレ達は確実に事件の核心に近づいている」
「でも、あいつらはいったい何の目的で?」
「わからない。けど、今はこの状況を打開する方が先だ!シア」
カシルは乱暴に頬の血を拭うと氷壁に手をつき、シアに目配せする。シアも頷き返した。
「ええ!術書はまだ取り返せる!だから少しだけ時間を頂戴!」
「了解、三人はオレがここで足止めしておく!無茶だけはするな!」
「カシルもね!必ずすぐに戻ってきて助けるから!」
シアは言いきると森へ向かって駆け出した。横目にそれを確認すると、カシルも手に力を込め、氷壁に向かって横薙ぎにする。
「いつまでも隠れていられると思うなよ、氷の化身!」
テイの怒号が響き、さらに鋭く伸ばされた爪が氷壁に迫る。しかし氷壁に達したかしていないかの瞬間、前方を阻んでいた氷壁が小さな氷塊となって飛び散った。巨大な氷壁から生まれた数多の氷塊は、勢いを纏って三人の化身に降りかかる。今度は三人が目を覆う番になった。
「そんなに急かさなくたってちゃんと相手してやるから安心してよ。ただしこれは正当防衛ってやつだから、オレが勝っても恨まないでよ?」
軽い口調の少年の声に、三人の化身は顔を上げる。青い燕尾を翻し、カシルが上空に舞い上がった。氷の欠片を周辺に随えて化身達を見下ろす。
「自然王の補佐、氷の化身カシル・・・なめんじゃないぞ」
「んなっ!それはこっちの台詞だ、氷の化身!同等の化身三人を同時に相手にするなんて出来ると思ってんのか!?」
「テイ・・・だったっけ?思っているからそう言ってんの。そんなことも分かんない?」
カシルは自分の頭を指で指し、わざと挑発する素振りを見せる。そして見事に引っかかってくれたようだ。テイのこめかみに青筋が浮き出る。
「貴様―!!スイ、ルイ、こいつを血祭りに上げるぞ!」
「はいはい、さっさとやっちゃいましょうか」
「確かに、三人の方が早く済むうえに手間も少なくなるからな」
三人は頷き合うと、上空のカシル目掛けて踏み込んできた。驚異的な速さで迫る彼らに、カシルは大きく腕を薙ぐ。
氷で形成された槍は不規則な時間間隔で次々に打ち出された。しかしスイとルイは最小限の動きで避け、テイにいたっては迫る槍全てを爪で迎撃していく。
「どうした!?啖呵きったわりに全然当たんねぇじゃねえか!」
テイがさらに加速して迫る。そしてまた一本、近づいてきた槍を迎撃し終えたとき、前方にカシルの姿は無かった。驚いて後を振り返ると同時に左腕を取られる。
「な!?」
「近づけばいくらでもあたるだろう?他にもこんなことが出来るんだ」
カシルが触れたテイの左腕がみるみるうちに凍っていく。空気中の水分でさらに氷を重ね、腕は元の太さの倍になった。そして瞬時にカシルは背中へ回りこみ、テイを地面に向かって蹴り落とす。凍った部分の重さをくわえ、落下は通常よりも加速し、すぐに激しい衝突音が響いた。
「ぐあああああっ!」
「まず一人!次は!?」
「我々が行こう」
ルイとスイが同時に殴りかかってきた。氷の盾を瞬時に形成し、ダメージを緩和させる。しかし緩和させても二人分の衝撃に耐え切れず、身体が後方に押された。びりびりと腕に衝撃が伝わってくる。
「華奢な見た目のわりにけっこう腕力あるじゃん」
「あなたもなかなかの実力を持っていますね」
スイはもう一度踏み込み、次は蹴りを繰り出してきた。カシルは真上に跳躍して避け、降下と一緒に蹴りを返す。しかし右腕で受け流され、今度はスイとルイがまた同時に攻撃を仕掛けてきた。だが焦るどころか、一瞬、カシルの口元に笑みが浮かんだ。
「終わりです!氷の化身さん!」
「覚悟しろ!」
「いいよ・・・・・・ただしお前達がね!」
ルイの拳とスイの足がカシルに届く寸前、上と下から氷の刃が突き出された。先ほど真上に跳躍したときに仕掛けておいたものと、今蹴りをはずしたときに仕掛けたものである。カシルは上空からの蹴りを攻撃ではなくフェイントに使ったのだ。そして休まず氷の刃を形成し、静止状態にある二人に向かって振り下ろした。
バリン!
しかし氷の刃は二人に達する前に砕け散り、破片も空気中に消えていった。
「何!?」
「言っていませんでしたっけ?僕達は・・・」
「火の化身だ」
ルイの言葉に目を見開く。ルイはその一瞬の隙を見逃さず、すかさず回し蹴りをカシルの脇腹に叩き込んだ。
「ぐぅっ!!」
完璧に打ち込まれた攻撃にぐっと息を詰まらせる。二撃目を避けるべく痛みを堪えながら後退した。
「げほっ・・・痛〜っ、今のはちょっと効いたな」
「やせ我慢はやめたらどうです?すぐに隠し切れなくなるんですから」
「ああ、次から手加減はしない。氷であるお前にとって最も苦手な火である我々に勝つことは出来ない」
二人の化身はまた同時踏み込んできた。今度は体中に炎を纏って。必死に応戦するカシルだが、小ぶりな氷を形成すればたちまち溶かされてしまう。
「最近悪魔の相手ばかりで体が鈍ってんじゃないですか?氷の化身さん」
「そうかもね、火の化身さん」
痛みの残る脇腹を押さえながら、カシルは必死に思考を働かせる。先ほど氷の刃を消したのは身体の回りに高温の熱気を纏わせたからか。火の化身というのが本当なら容易いことだ。しかしだとしたら、下手な氷攻撃は逆に自らの隙を作ってしまうことになる。さて、どうしますか・・・
ゴウッ!
「うわぁっ!」
突然下から飛んできた炎弾を紙一重でかわす。視線を向ければ、先ほど落としたテイが笑ってこちらを見ているのがわかった。おもわず舌打ちが出る。
「同じ化身レベルの戦いったって、三対一の、しかも苦手属性三人組が相手・・・オレってそんなに普段の行い悪いかなぁ?」
小さな呟きは潮風にかき消された。弱音のつもりはないが、あまりの部の悪さに日々の行いがつい思い出されてしまう。呟きと共にこの思考も風にかき消してもらいたいものだ。
「そうなんだろうな」
「・・・・・・っ!」
ハッと目を見張る。確かに声が聞こえた。それも対峙している三人の化身のものではない声。
「余所見しないで下さいよ、氷の化身さん!!」
拳に炎を纏わせたスイが目の前で振りかぶっていた。振り下ろされた拳をほとんど感覚だけで避ける。先ほど作った頬の傷の近くに、かすった炎によって新たな傷が出来た。
「これはこれは失敬でした!火の化身君!」
カシルは距離をとるようにさらに上空へ上昇する。十メートル程行ったところでぴたりと止まり、身を翻したと同時に一瞬で数多の巨大なつららを形成した。そして真下にいる化身達に向かって一斉に打ち落とす。
「これでどうだ!!」
降り注ぐつららの強襲。しかし三人の口元に浮かんだのは薄い笑みだった。拳に業火を纏わせたスイとルイは身に迫るつららを次々に迎撃、地上に居るテイは巨大なつららに対抗して二回り以上大きな炎弾で向かい撃つ。
「能が無いのはてめえの方だぜ!さっきの攻撃となにも変わっちゃいねぇ!」
「そうですよ。攻撃しているというよりは僕らに壊してもらうために氷を形成していますよ、氷のけし―――がぁっ!!」
スイの叫びと共に飛び散ったのはカシルではなくスイ自身の鮮血だった。突如背後から襲ってきたつららの欠片によって、スイの肩が切り裂かれたのだ。この状況に一番目を疑ったのは傍らで一部始終を見ていたルイだった。
「な、何故だ?何故物体である氷がこのような動きをする!?」
決してたまたまの動きではない。確実にスイの肩を狙って飛んできた。しかし一度放たれた氷がこのように複雑な動きをするはずがない。なら何故!?
今度はカシルが口元に笑みを浮かべる番だった。ゆっくりと下降し、彼らより少し上のところで止まる。
「そんなの・・・たとえオレでも操作できるわけないだろう?」
「な!?」
驚くルイの視界に、新たに鮮やかな緑が飛び込んできた。さらに目は見開かれる。それはカシルの傍らに静止し、潮風にたなびく黒髪をかきあげた。カシルの青い燕尾と共に緑の布も翻る。
「俺が風で氷を運んだんだ。風の化身である俺にとっては容易い操作だからな」
「サンキュー、セイル。まさにグッドタイミングだったよ」
三人の火の化身の前に、今、新たに風の化身セイルが舞い降りた。
遁走曲〜フーガ〜へ