狂詩曲〜ラプソディー〜
「どういうこと?・・・・・・っ、どういうことよ!?」
混乱した頭は無意識に扉を激しく開けさせた。大きな音を立てて開いた扉の向こうには、驚いた表情のセイルとバディアがそろってこちらを見ていた。
「どういうことなの?カシル君の魂が約三ヶ月で消えるって・・・いったい・・・」
「奏・・・聞いてしまったのか」
セイルは嘆息を漏らし、バディアは眉をひそめる。いきなり入ってきた少女は両の手を硬く握り、真っ直ぐに問う視線を向けていた。
「お前は、確か最近入った神官見習いの娘・・・・・・聞いていたのか?今の話を?」
低く威厳のある声は奏の耳によく響いた。おもわずすくんでしまうのが、自分でもわかる。
飲み込んでしまいそうになる言葉を懸命に紡ごうとしたとき、肩を引かれ、奏はレオンの背後に庇われた。こんな状況は二度目になる。
「すみません、バディア殿。偶然通りすがったところ、扉からの灯りに引かれ立ち聞きしてしまうような形になってしまいました。お許しください」
「シャンヴァスのせがれか・・・まあいいだろう、聞いてしまったものは仕方あるまい」
「ありがとうございます」
さすが父とともに神官をしていただけあって、言葉遣いも態度も場慣れしている。それでもとっさのことだったからか、バディアの言葉を受けて安堵の息を漏らしていた。
なんとなく気まずい雰囲気が漂う中、セイルは絶えずこちらに請うような視線を向けている奏を一瞥し、今度は促すようにバディアに目配せした。
「ふぅ、ここで適当にあしらったところで、納得するまで引き下がらないのだろう?」
「・・・・・・はい」
厳格な声の問いに答えた声は小さかった。奏はレオンの背から抜け出し、数歩だけ前に歩み寄る。
「ならば下手にかぎ回られたり騒ぎ立てられるよりは、いたしかたない」
「よろしいのですか?」
セイルの確認の問いにバディアが頷く。
「カシル君の魂が・・・消えるってどういうことですか?」
真剣だがどこか怯えているような目をしている奏と、同じく必死に心を落ち着かせようとしているレオン。まだ年端もいかない二人に向かって、今度はセイルが話し始めた。
「いいか?まず俺たち化身の共通した生い立ちから説明する。よく聞くんだ」
つばを飲んで縦に首を振る。自分から訊いたことなのに答えを聞くのが怖い。セイルの紡いでいく言葉のひとつひとつが、奏の鼓動を大きくさせていった。
「そもそも化身というのは大昔から奉られた呪物や御神体であったり、神仏のように祈りを贈られた自然の産物から生まれたんだ」
せかす気持ちと怖い気持ちが胸の中で交錯し、思わずギュッと両手を握り合わせた。相槌は小さく頷くだけにとどまる。
「そして人々の念がいっぱいになったとき、魂を宿し、肉体が生まれ、化身となる。そのとき、源となったものから切り離され、ひとつの生命体として独立させられるんだ。ちなみに源となったものを俺たちは起原と呼び、その後、俺たちはときおり自然界のエネルギーを得ることで半永久的に生きていけるんだ。人間のように老いることも無い」
「・・・・・・そうなんだ」
初めて聞く化身の成り立ちについては、改めて自分と彼らは違う生命体であるということを感じさせた。いくら姿形は似ていても人間と化身は違うのだ。
奏はわかっていたはずのことに、何故か何となく寂しさを覚えた。
「では、カシル殿は違うのですか?化身が半永久的に生き続けることができるというのならば、氷の化身であるカシル殿も同様はず・・・」
「化身となるまでの工程はあいつも俺たちと同じだ。ただカシルの場合工程ではなくその過程が少し特殊なんだよ」
「・・・・・・特殊?」
躊躇うように一拍おいて、セイルはまた言葉を紡いでいった。
「あいつの起源は砂漠の神殿にある氷だ」
「砂漠!?氷が、砂漠に?そのようなこと・・・」
「もともとは北欧にあったものだそうだが、それをわざわざずっと南の砂漠まで運ばれたらしい。氷が溶けなかったのは、その神殿が地下深くにあって直接日光にさらされることが無かったこともあるが、そこはもといた北欧の神殿と並ぶほどの聖域で、その力が氷を保護していたという」
「まあ、わざわざ運んだのは、北欧から遠く離れた信者のための御神体ってところだろう。砂漠の氷ということもあって希望にも思えたらしく、新しく信者も増えてかなり重宝されたそうだ」
バディアが補足をつけ加え、セイルもそれに頷く。ここまで聞いた分、確かに特殊な境遇ではあるがそこから何故魂に期限がついたのかはわからない。奏とレオンはじっと息を呑んでセイルの次の言葉を待つ。
「そうやって重宝された分多くの念が集まり、やがてその念は聖域自体の力も強めていった。聖域をも強めるほどの念が募りに募ったとき、それは魂を作り、化身を生み出した・・・・・・それが奴、カシルだ」
改めて息を呑む。ふと、飄々と笑う顔が脳裏を横切り、優しく撫でるように叩く頭の感触が蘇る。彼もやはり人間ではなく、化身という生命体なのだ。
知らず知らず俯いてしまっていた奏の頭に、正確には額に掛かるように何か置かれた。ハッとして顔を上げてみると心配そうに覗き込むセイルと目が合った。頭に置かれたのは優しく撫でる彼の手だったのだ。
「大丈夫か?顔色が優れないようだが・・・・・・?」
「セイル君・・・・・・」
彼も化身であって人間である自分とは違う存在。でも手袋越しに伝わってくる体温はとても温かい。それも小さい頃両親にしてもらったのを思い出し、懐かしく思うくらい、とても優しい手。―――なんだ、やっぱり一緒なんだ・・・
「・・・奏?」
「ううん、平気よ。ありがとうセイル君・・・・・・お願い、続きを話して。そこまではセイル君達と同じはずなのに、どうしてカシル君は特別なの?」
先ほどは確かに寂しさを感じていた。しかしそれは今、安堵の気持ちに変換され、目の前の少年の瞳を真っ直ぐ受け止められるようになった。しゃんと顔を上げて続きを促す。
そんな奏を見受けてセイルは一瞬目を見張ったものの、彼女の頭の上に置かれた手でもう一度撫で、再び椅子に深く腰掛けた。
(まったく、カシルもなかなかすごい娘をスカウトしたものだな・・・俺も傍にはいたけど)
嘆息まじりの息を一つ吐くと、セイルはまた一拍置いてから話し始めた。
「蓄積された念の影響は、あいつを生み出すだけじゃなかったんだ」
「もしかして先ほど言っていた『聖域自体の力も強め』というやつですか?セイル殿」
「ああ、そうだレオン。念が募っていくにつれ聖域の力は強くなり、その力は御神体であった氷にまで浸透していった。カシルが悪魔を浄化させるほどの強く清らかな力を持っているのはこれによるものだ」
「なるほど・・・」
「しかし・・・・・・聖域がもたらしたのはプラスのことだけではなかった。奴に強い力を与えた代償とでもいうように、化身となりひとつの生命体として生まれたとき、本来、起源となったものから切り離されるはずだったあいつの魂は、切り離されることなく縛り続けられ・・・・・・」
セイルは途中で言葉を切ると、その続きはバディアが引き継いだ。
「起源に魂を縛り続けられる、すなわち御神体である氷と運命をともにするということ・・・・・・したがって、起源である氷が溶けきるとき、カシルの魂も消滅する」
ドクン!
奏の鼓動が大きく跳ねた。
「その氷はすでにほとんど溶け、二ヶ月と二十七日というのは完全に溶けきるまでの期間というわけだ」
ドクン!
また、鼓動が大きく鳴る。全てが一つの線に繋がった。
奏は再び息を呑み、両の手をぎゅっと強く握り締め、目を見開く。頭の中で何度もバディアの言葉が復唱された。
―――カシル君が、消滅・・・・・・
「そんなぁ・・・・・・そんなことって」
口から出た声は力なくか細かった。落ち着いたはずの思考は再び忙しく回り始める。
『「は?」じゃなくて、スカウトに来たって言ったでしょ?』
『じゃ、邪魔なんかしてないよ。ただあそこが昼寝には丁度いい場所なだけで』
『いっけぇーい!』
『そっか、じゃあ頑張ってね』
『改めて言おう。日浦奏(ひうらかなで)、君をスカウトに来ました・・・OK?』
だって、あんなに飄々と笑って―――
「っそんな!どうにかならな―――」
「言うな娘!!」
「・・・・・・っ!」
バディアの叱咤に奏は言葉を飲み込む。その瞬間、すぅっと頭が冷えていく感覚がした。目を逸らせずに押し黙っている奏を見つめるバディアの目は、怒っているのではなく、ただ気難しく眉をひそめているふうだった。
「娘、いや奏・・・魂の営み、大自然の大きなサイクル、運命ともいえるこの流れに逆らうことは誰一人許されないのだ。この世に生を受けたもの皆な・・・それは王殿にいる者全てがよく知り、実感していることだ」
「・・・・・・・・・」
「奴も例外ではない。そして何よりも、奴自身が一番よく知っている」
「カシル君が・・・」
「では逆に訊くが、奏、人間というのは歳を重ねればいずれ老いて死ぬが、カシルも老いぬだけで年月を経れば確実に寿命が近づき、そしていつか魂はこの世を去る。寿命を持ち、寿命が尽きれば死ぬというこの二つは同様ではないのか?それともお前は老いて死に逝く魂は皆どうにかしなくてはならないと、そう考えているのか?」
「・・・・・・っ!私、は・・・・・・」
核心を突かれた。ぐっと言葉に詰まる。確かに奏自身も人間であり寿命もあるが、カシルのことも寿命と考えればそれは自然の摂理にほかならない。冷酷とも思える事実が目の前をうろつく、ここはそんな場所だった。生を受けた者全てに当てはまる抗うことの出来ない掟を、今改めて実感した。
かすかに奏の方が震える。
「・・・・・・かしこい娘だ。たしかにセイルの言っていたとおりだな」
バディアの低い声が書庫に響く。奏は肩を震わせて俯き、レオンは目を伏せて右肘を握る左手に力を込めていた。セイルは二人に声を掛けることもなく、机上に目を向けている。
「・・・・・・っ!」
不意に奏の頭に数分前の光景がかすめた。けっして広くはない書庫に、互いの背を預け合うカシルとシアの二人・・・・・・
「あのっ!」
「どうした?」
「シアさんは・・・シアさんはこのこと知っているんですか?」
奏の言葉に皆顔を上げた。この問いに答えたのはバディアではなくセイルだった。
「シアは・・・おそらく知らないだろう。俺たちは口止めされているからな」
「口止め?いったい誰に?」
「カシル本人に、だ。『あいつには黙っていてくれ』と、そう言われている」
「カシル君が・・・・・・」
どうして?シアさんは一番近くにいる人じゃないの?カシル君にとってほっとけない大切な人だから?心配掛けさせたくないから?
「さあ二人とも、話はこれで終わりだ。早く部屋に戻りなさい」
「あ・・・はい。バディア殿、セイル殿、失礼いたしました」
レオンは二人に向かって礼をした。衝撃的な話を聞いて動揺した後でも、彼の動作には礼がしみこんでいる。
「ほら、奏もその涙を拭いて部屋に戻ったらいい・・・」
「え・・・?」
セイルの言葉に奏はハッと顔を上げ、自分の頬に手をやった。指先がかすかに濡れた。瞬きをすれば指に滴が触れ、戸惑いに何度か目を瞬かせるとまた指先を濡らした。
「私、泣いてたんだ・・・ごめんなさい、すぐっ、と、止まるっ、から」
服の袖で引っ張って涙を拭うが、奏自身の意思に反して止まるどころか嗚咽を漏らすようになる。何とか止めようと大きく息を吸い込もうとするが、嗚咽のせいでうまくいかない。また、セイルの手が奏の頭に載せられた。
「無理するな。外の空気を吸ってくるといい。会って間もない誰かのために涙を流せるなんて、本当にお前は優しくて変わった奴だな」
「ひっく・・・・・・」
奏は何度か嗚咽を漏らした後、多少呼吸が整ったところで俯いたまま一礼して、レオンとともに書庫を出ていった。
月が星達を消してしまいそうなくらい輝いていた。星達も月に負けじと光を放っている。
手すりを掴む手は夜風に当たり少しだけ冷たくなってきた。そよぐ風は奏の頬を撫で、短く切られた髪を揺らす。
奏は書庫を出た後、セイルに言われたように外の空気を吸おうと、テラス状の廊下の一角に向かった。心配そうに気遣ってくれたレオンに「ごめん」と一言だけ言って、足早にその場を離れた。少し悪い気はしたが、なんとなく一人で落ち着きたかったから。
月を見上げ、夜風に当たり、涙は乾いただろう。目は腫れているだろうか?
「私、明日からちゃんとカシル君やシアさんに会えるのかな・・・?」
「オレがどうかしたってぇ?」
聞き覚えのある飄々とした声。むしろ耳に新しく感じる。そう、さっきまで何度も脳内リプレイされていた声だ。
「カ、カカ、カシル君!?」
「やだなぁ、そんなに驚かなくてもいいのに」
「だだ、だって、カシル君、逆さまじゃない!」
奏の言葉どおりカシルの今回の登場は、奏の目の前に(つまり手すりの向こう側に)宙吊りの如く(文字どおり逆さまの体勢で)突如出現した。タイミングが良過ぎると言えばそうだが、むしろ奏にとっては最悪のタイミングだった。
「アハハ、奏でもやっぱりびっくりしちゃうかぁ。前はシアもびっくりしてたのに、今じゃもう慣れちゃってつまらないんだよね。そっかぁ、次のターゲットは奏かぁ」
「第三書庫に、居たんじゃないの?」
「あれ、知ってたの?まあ、さっきまで居たには居たんだけど、オレもちょっとやることあったからさ、明日からの任で。そしたらその途中で奏を見つけたから」
ひらひらと手に持った海図を目の前にちらつかせるカシルに、奏は小さく「そう」とだけ答えた。驚きが覚めてくると同時に先ほどまでの出来事が蘇ってくる。話の主要人物が目の前にいれば当然ではあるが、出来れば彼の前で思い出したくなかった。
胸の想いがどんどん膨れて、自然と奏の顔を歪ませた。また、涙がこぼれてくる。
止まれ!何も本人の前ですることじゃないでしょ!止まってよ、私!
「奏・・・?」
「・・・・・・ごめん、ごめんなさい。カシル君、私・・・・・・っ!」
そして奏は耐え切れずにカシルに話し出した。全て聞いてしまったこと、全て知ってしまったことを・・・・・・
「そっか、知っちゃったのか。ごめんね、つらい想いさせて」
奏はふるふると首を横に振る。嗚咽を漏らしながら必死に涙を拭うが、涙は止まらない。
カシルは奏の話から聞くと、「まいったな」とでも言うように苦笑いをしただけだった。正直話し終えた後の反応が怖かった奏にとって、拍子抜けするほど彼は普段と変わらなかったのだ。
「オレは大丈夫だから。だから、奏が泣くことはないだろ?」
「だって!!・・・っ、だって、辛くないはずないじゃない、寂しくないわけないじゃない!カシル君自身だってそうでしょう!?」
「奏・・・オレは―――」
「カシル君、あんなにシアさんのこと大事に想っているのに・・・」
「・・・・・・っ」
カシルは遮られた言葉の続きを口の中に止め、奏の言葉に目を見開く。奏はカシルのそんな様子に気づくことなく、俯いたまま想いをぶつけた。
「シアさんだってきっと・・・っ、なのに、こんなことって・・・・っ!」
第三書庫で見た二人の様子は、とても温かで優しくて、とても幸せそうな、そんな雰囲気だった。離れた場所からではあったがよくわかった。見ていたこちらまでもが、幸せな気持ちになるくらい。なのに三ヶ月と待たないうちにそれは消えてしまう。誰も抗えない、誰も抗うことのできない掟によって。
やるせない、悔しい、歯痒い。二人のために自分は何も出来ない。ただ見守って、無常に流れる時を待つしかない。・・・・・・無力という言葉が重過ぎる―――
「ありがとう、奏。まったく、鋭いうえに案外泣き虫なんだねぇ」
今度は優しく微笑んでくれた。腰に手を当て、肩をすくめてみせる。
「たった三ヶ月かもしれないけど、まだ三ヶ月もあるんだ。それまでまだオレは消えてやらない、離れてやりもしない、オレの『存在』を揺るがせたりなんかさせない。だからこそ、それまでにオレは王の補佐として悪魔を絶つんだ。オレは自然王直属補佐、氷の化身カシルだから」
「カシル君・・・」
「このこと、シアには黙っててね。下手に言うとあいつのことだからきっと、オレを助ける手立てを探して奔走するだろうから。今でも十分忙しいのに本当にそうなればブッ倒れかねないだろう?これ、自惚れじゃなくて確信ね」
「・・・・・・・・・わかった」
奏は小さく呟くとやっと顔を上げた。目は赤く腫れている。呼吸もまだ完全には整っていないようだ。
「変よね、自分のことじゃないのに大泣きして、あげく本人に励ましてもらうなんて」
「アハハ、まったくだ」
カシルは奏の肩に手を置き、百八十度方向転換させる。戸惑う奏の背をポンと押し、進攻を促した。理解できずに奏が振り返ると、カシルは自分の目を指差した。
「さ、今日は早く休んで。じゃないと明日まで引っ張るよ、その真っ赤な目」
ハッと泣きはらした目に手をやり、再度ゴシゴシと服の袖で目を拭った。奏は濡れた袖を、眉を寄せながらじっと見た後、しぶしぶ部屋への方向へ足の向きを変えた。
「おやすみ、奏」
再び帰途についた奏の背を、カシルはヒラヒラと手を振って見送る。と、いきなりその背中は止まり、またこちらを振り返った。
「カシル君って、やっぱり強いのね。普通だったら運命を呪ったり、生まれを後悔したり、悔いる気持ちでいっぱいになって笑えなくなってるはずだもの」
まだいつもの元気が戻りきっていない奏は、小さく微笑むと小走りでその場を去っていった。後には彼女を見送ったカシルだけが残る。
カシルは振っていた手を下ろし、手すりに両手を乗せ、遥か頭上で輝く月を見上げた。大きな月は先ほどよりも少しだけ西に傾いた気がする。ぽつりと小さな独り言が漏れた。
「人身をとったところでそれは似て否なる者。後悔なんてあいつに初めて会ったその日から、しているのかもしれないな」
夜が明けた翌日、カシルとシアは移動用魔方陣の上に立っていた。魔方陣の周りにはセイル、奏、ギオ、そしてシアの先輩にあたる女神官のセーラが、二人を囲むように並んでいた。
「じゃ、オレ達は向こうにある支部を拠点に調査してくるから。あとは頼んだよ、セイルにギオ」
「もともと自由奔放に活動していてまともに仕事をしていなかったお前から、ここの何を任されたのかは知らないが、一応わかった。頑張ってこいよ」
「いいなぁ、調査って海のど真ん中にある島でなんだろう?何で水の化身であるオレがいけないんだよぅ」
ぶぅとふくれるギオの肩をセイルがなだめるように叩く。
「お前は帰ってきたばかりだからな。役割が溜まりに溜まっているそうだ」
まだ納得のいってなさそうなギオは「へいへい」と軽く返事だけしておいた。隣のセーラがくすくすと堪えながら笑みをこぼす。
一方、そんなやり取りをよそに、シアは奏に一冊の本を手渡していた。
「はい、奏ちゃん。なんとか間に合わせることが出来てよかったわ」
「シアさん、これは?」
パラパラと本をめくってみると、書庫で見たような特殊な文字がびっしりと書き込まれていた。よく見てみれば、それはつい最近書かれたようにインクが新しく見える。
「奏ちゃん用の術書よ。慣れていない人向けの簡単な術を中心に書いたんだけど、練習はもちろん身を守るくらいなら出来る術ばかりだから。あ、ここに術の効果と、注意書きがあるから気をつけてね。呪文を指でなぞりながら唱えると発動するわ」
「術書?私の・・・?っていうかこれシアさんが全部私用に手書きで書いてくれたの!?こんなに細かく、一冊まるまる!!」
驚きに目を丸くする奏に、シアは照れたように「ええ」と答えた。それと同時にふつふつと喜びと嬉しさが込み上げてきた。もう一度キラキラとした目で本を眺める。
「ありがとう・・・ありがとう、シアさん!私のためにこんなことまで・・・嬉しい。大変だったでしょうに、本当にありがとうございます」
「喜んでもらえたようでよかったわ。一応、言語変換の術はかけておいたから読めるはずよ。大丈夫、奏ちゃんならきっと大丈夫だから」
ニッコリ微笑むとシアは魔方陣の中心に向かった。カシルも隣に並ぶ。
セーラが呪文を詠唱し始めると、魔方陣がどんどん強い光を放ちだした。
「じゃ、皆さん行ってきまーす!」
「奏ちゃん、困ったことがあったらセーラさんに訊くといいわ。修行頑張ってね」
「はい!行ってらっしゃい、シアさん、カシル君!」
二人は姿が見えなくなるほどの強い光に包まれ、光が消える頃には二人の姿は無くなっていた。遠く、海の真ん中にある支部へ向けて旅立ったのである。
奏は満面の笑みで大きく手を振って見送った。光が完全に消えるまで振り続けた。
「よく頑張ったな」
セイルにそう言われて頭を撫でられると、とたんに笑顔は崩れ、涙が滲み出した。セーラも労わるように微笑み、ハンカチを差し出す。奏はハンカチを受け取ると、本と一緒にぎゅっと胸で握り締めた。
本当は見たくなかった。カシルとシア、二人の並んでいる姿を見ると苦しくてしょうがなくなる。でも、いきなり休んでしまえばシアが心配してばれてしまうかもしれなかったから、カシルとの約束を守れなくなってしまうから。心を少しだけ奮い立たせた。
正直、しばらく二人と離れていられることがありがたく思えていた。そうしたら考えずにすむだろうか・・・・・・ああ、私は強くなんかない。
「奏、俺も三日後にあいつらと同じ支部へ向かう。こちらで集めた資料を届けなくてはならないからな」
「え・・・?」
セイルは何とはなしにそれだけ言い残すと、すたすたと部屋を出ていってしまった。
結局彼の意図をつかめず、ただ遠のいていく背を見送っていた。
薄暗い部屋。灯りは閉められた窓の隙間からこぼれる太陽の光のみ。硬く磨かれた石の床に一つの影が立っており、くぐもったテノールの声が静寂にやたら響いていた。
「氷の補佐が発ったか・・・いい所に目をつけたな」
「だが問題無い。私も出向こうと思う」
もう一つ片方の声に比べて弱冠高い声が響いた。
「そうか、ならば確かに問題は無い。しかし、もう早奴らの前に姿を曝しても?」
「すでに『もう』と言える時期ではないだろう。かまうことはない」
「ああ、そうだな」
テノールの笑い声が部屋に響き渡った。