小夜曲〜セレナーデ〜前編
中央第二書庫…けして広いわけではなく、本が本棚から溢れかえっている、こじんまりとした場所。でも静かで、窓からの光も柔らかく感じる独特の雰囲気は、やっぱり心が落ち着く。そして入り口の扉を開ければ、君はいつもそこに居る。
『なあに?またお昼寝?』
いつも最初に目に入るのは後姿なのに、すぐ振り返って顔を見せてくれる。でも大抵その見せてくれる顔は二種類。眉をひそめた呆れまじりのしかめっ面か、または、柔らかく微笑んだ笑顔か…
「私と、同じ力がほしい・・・・・・?」
キョトンとした顔で訊ねるシアに、奏は真っ直ぐ目を逸らさずに力強く頷く。
「私自身、突拍子も無いことを言っているのはわかってる。でも、私もシアさんみたいな役に立てる力がほしいんです!」
ぎゅっと両の手を握り締め、真剣に訴えかける奏。
『私、シアさんみたいな力がほしい。さっきの悪魔達との攻防を見てて、立派に戦うカシル君やセイル君はもちろん、私は何も出来なかったけどシアさんは化身とかじゃないのに、ちゃんとカシル君のサポートとかして、ちゃんと戦ってて・・・私も、何か見えるだけじゃなくて、ちゃんと何かをしたい!せっかく青界に来たのに、何も出来ない足手まといは嫌だもん』
奏は、探し物を終えて彼女のもとへやってきたシアに、思い切って胸の内を言ってみたのだった。案の定シアはキョトンと驚きと疑問の表情になり、奏自身も自分の言ったことに驚いてつい俯いてしまった。しかし言ったからには引き下がれない。
短い沈黙が流れ、奏はおそるおそる顔を上げた。シアの表情は少し困ったような笑みから、柔らかくて優しい笑みに変わる。
「そっか・・・」
「シア、さん?」
フフと小さく笑った後、シアは奏の頭にポンポンと軽く手を置いた。まるで幼子を撫でるように優しく、でも目は真っ直ぐに向けて。奏はそんなシアの様子に疑問詞を浮かべて、問うように首をかしげる。
「大丈夫よ、焦らないで・・・」
「え・・・?」
「奏ちゃんの気持ち、私わかったから・・・ね?」
腑に落ちない点はある、しかし奏は何故かシアの笑顔になだめられるような感覚がした。そんな奏の様子を見てか、シアは先ほどの探し物を奏の首に掛けてやる。
「はい、護身用のお守りよ」
赤くて小さな丸い石を銀色の装飾が包み込んだような作りのペンダント。奏がまじまじとペンダントを見ていると、小さく呪文を唱えたシアの手がペンダントの上を撫でるように通り過ぎ、小さな光を放ったかと思えば赤い石は一瞬だけ虹色に煌いた。
「わあ、綺麗・・・」
「今、お守りとしての力を強化しておいたから」
「あ、ありがとうございます!」
ペンダントを掛けてもらった奏は、嬉しそうに首から下がっている赤い石を手に取る。割とシンプルだが可愛らしいデザインのペンダントは、見習い神官服にもよく似合うのだ。
嬉しそうに笑う奏を見て、シアも「よかった」と優しく微笑んだ。
「これである程度身を守れるから安心ね。仕事は、しばらくは私と一緒だから・・・」
くるりと踵を返して、シアは先ほどのペンダントの捜索によってちらかった机に向かう。
「そうね、じゃあまずは一日一時間の瞑想から訓練を始めましょうか?」
その一言に奏はハッと顔を上げる。シアも視線を再び奏に向けて続きの言葉を紡ぐ。
「どんな術も基本は精神の力よ。まずはその基本を固めないとね?でも仕事に差支えが出るといけないから一日一時間。これを今日はもう遅いから、明日から始めましょう?」
シアの言葉は先ほどの奏の意志をしっかりと受け止め、ちゃんとそれをくんだうえでの先輩としての言葉。優しく微笑んでくれる先輩に、奏は満面の笑みで頷いた。
「はい!」
「よろしい。それじゃあ一つ頼まれてくれる?もう暗くなるからランプを変えてきてほしいんだけど・・・昨日でちょうど切れちゃって」
「はい、わかりましたシアさん」
奏の返事を受けて、シアは「お願いね」と散らかった机の上をせっせと片付け始めた。たまに欠伸をしてはブンブンと顔を振ってはらい、その後また手を動かす。切れてしまったというランプを手に持って、奏はそんな一生懸命なシアの背中を見つめる。
「あれ、そういえばカシル君『また徹夜?』ってシアさんに訊いてたよね?じゃあ徹夜してもあれだけ仕事に一生懸命でいられるんだ・・・やっぱりすごいな、シアさんは」
「わあ、尊敬の眼差しなんて、短い間でもう理想の先輩後輩関係作っちゃってるよ」
集会を終えたカシルが書庫の扉からひょっこり顔を出した。そのままシアに視線を向けながら奏のところへ足を運ぶ。
「集会、終わったんだ?あれ、セイル君は?」
「セイルは同じ補佐の同僚に連行された」
「はい?」
ハテナマークを浮かべる奏をよそに、カシルは少し前のやり取りを思い出す。
『なあ、セイル!俺さぁ、長い間出張で全然最近のことわかんないんだよ』
『・・・で、俺にどうしろと?ギオ』
『つーわけで、これからここ数年分の出来事全部と今の状況を教えてくれ!お前の説明は本当にわかりやすいからなぁ』
『なっ、そういうのは乱炎にでも頼めば・・・って、引っ張るな』
『だって、あいつ機嫌悪そうなんだもん。怒ったら鬼の形相だぜ?じゃ、早速行こう!』
抵抗するセイルをものともせず引っ張っていくギオに、カシルはついさっき「いってらっしゃい」の手を振ったばかりだ。むしろセイルに「ご愁傷様」の意を示したのかもしれない。その後、カシルはこの書庫に向かったというわけだ。
「で、奏はシアに護身用のペンダントを貰ったんだ?」
「あ、うん。えへへ、綺麗でしょう?」
ニコニコと胸元のペンダントをつまんで見せる。一方、それをあげた本人のシアは夢中で机に向かっていて、カシルが来たことにさえ気づいていないようだ。
「さて、私はランプね!早く変えてこなくちゃ!」
気合を入れるべく拳を握り締めて両手でガッツポーズをとる奏を、今度はカシルが不思議そうに見下ろす。奏もカシルの視線に気が付いて、一度カシルに目をやった後、視線をシアの方へ移した。
「ご機嫌じゃん、何かいいことあった?」
「うん、まあね。私もシアさんみたいな力がほしいって、ちょっと我がままみたいなこと言っちゃったの。私、この青界に来て全ての大きさにビックリして、それで自分の力量に焦っちゃってたみたいなのよ」
確かに無理もないと、カシルは話す奏の横顔を見てなんとはなしに思った。
「でも、そうしたらシアさんは「大丈夫よ、焦らないで」って、そう言ってくれて、それでも不安そうな私に『一日瞑想一時間』って課題つけてくれたの。なんかね、私一人っ子だからよくわかんないけど、お姉さんってこんな感じかなって。優しくって、しっかりしてて、なんか私の焦りとか不安とかぬぐってくれてさ」
「ふ〜ん、なるほどね」
「ってことで、私はランプ変えてこなくっちゃ!」
再び意気込みとともにガッツポーズをつくる奏。事情を聞いたカシルは、やる気満々といった奏を見ながら肩をすくめる。
(本当に元気っていうか、順応性が高いっていうか、関わってまだ間もないのにこのやる気ってある意味凄いかも)
まだ出会ってから一日も経っていないし、悪魔だのなんだの不思議なものに遭遇してこれだけ明るく元気でいられるのは、本当にある意味凄いことだ。普通なら混乱してオロオロ、ましてや免疫がなければ不安になって泣き出したくもなるだろうに。これも少女の祖母の血か、もしくは一種の才能かもしれない。
そんなことを考えながら、カシルは反面この頑張り屋なところと、少女の「焦った」の言葉に過去の記憶を重ねていた。フッと小さく微笑むと、手を奏の頭に置く。
「そっか、じゃあ頑張ってね。でも、くれぐれも焦んないように」
「うん、わかってるわよ、カシル君」
置いた手で軽くポンポンと頭を叩く。ポンポンと、優しく―――
「あ」
「ん?どしたの、奏?」
「えあっ、な、何でもない!」
何でもないとは言うが、奏はカシルに叩かれた頭にそっと手をやり、少し考えた後シアの背中に目をやる。じっと見たら今度は再びカシルに視線を戻した。
「やっぱり似てる、かも」
「何か言った?」
「ううん、何でもない何でもない!気にしないで」
少々大げさに首を振って否定する。奏の内心を知ってか知らずか、カシルはそれ以上訊くことはなかった。変わりに「そう」と言ってまたニッコリと笑い、後の本棚に背を預けると、視線をシアの背中に向けた。
休まず手を動かすシアの姿は忙しそうに揺れていて、それを見るカシルの視線はどこか温かで「見る」というよりも「見守る」の方がしっくりきた。
「やっぱり、気のせいじゃないのかな・・・?」
一生懸命なシアとそれを見守るカシルを見ながら、奏は小さく呟いた。
「あっ、そうだ奏。ランプ、変えに行くんだっけ?」
突然の呼びかけに思考の海から引きずり出された奏は、驚いて勢いよく振り返り、「ええ」と短く返事を返す。カシルは一瞬難しい顔をした後、ちらりと窓の外を盗み見て、奏の持つランプに手を置いた。
「奏、今日のランプはいいよ、変えてこなくて」
「え?どういう・・・」
奏はカシルの言動に不思議そうに問いかけるが、カシルの視線はすでにシアの方へと向いていた。
「あいつは、また―――」
カシルは何かに気が付き、最後まで言い終わらないうちに足を前へ踏み出した。反射的に奏もその方向に目を向ける。
カシルが踏み出すのと、シアの身体が前へ傾いたのは同時だった。
「あれ・・・?」
もともと重たかった瞼は重みを急激に増していき、視界はぼやけ、そして薄っすらとなっていく意識の中、前のめりに倒れていくのを自分でもなんとなくわかっていた。しかし保たれていた意識は体が傾いていく中で一瞬途切れる。
トスッ・・・
次に意識が戻ったのは軽い衝撃によってだった。しかし軽い衝撃といっても、傾いた体が冷たい床に倒れたことによってのものではなく、突然現れた誰かの手によって支えられたときの衝撃。しかし正確に言えば支えられたのは体ではなく額であって、つまり前のめりに倒れかかったところをおでこに片手をやることにより支え、防いだということだ。
「またまた眠たいのやせ我慢しちゃってさ」
まだ覚醒しきれていない意識の中、聞こえてきたのは支えてくれた人物の声。それはいつもどおり飄々としていて、でもそのなかに呆れの台詞とは合っていない優しくて温かさのある声だ。
「危なかったね。オレが押さえなかったら、今ごろまたおでこに赤い痕できてたよ」
確かにあのまま倒れていたら机に額を打って、みっともない痕を作ってしまっていただろう。まあ、助け方というか、この体勢について考えようはあるが。
「本当にこのどこでも居眠り癖だけは治らないんだから。奏は気をつけるんだよぉ?」
飄々とした声が悪気無く言葉を紡ぐ。その瞬間自分自身の何かのスイッチがオンにされるのを感じ取る。支えてくれていた手から額を離し、ぐりんと勢いよく当人の方を向いた。
「私は居眠りなんかしてないわよ、カシル!!」
シアの澄んだ声が書庫中に響いた。
「あいつに説明するって、どっと疲れるな・・・」
少々理解力が低いのに好奇心だけは旺盛なギオの質問攻めから、セイルはやっと開放された。ギオの満足げに去っていったところを見ると、しばらくこんなことは無いだろう。
疲れを覚える身体でカシルが先に向かったであろう書庫へ足を運ぶ。ちょうど入り口に差し掛かったところでシアの大きな声が耳に入った。
「またやっているのか、あいつら・・・」
さして驚くふうでもなく冷静に入り口の扉を開いた。そしたら案の定、予想通りの光景が目に入ってきた。
「私にどこでも居眠り癖なんて無い」
「うとうとしてたじゃん、素直に認めちゃえばぁ?」
「あ、あれはちょっと疲れてただけで、なんでもないわよ」
「じゃあさっき前のめりに倒れてったのは?」
「それは、その・・・ちょっと、ほんの一瞬だけ、えっと、意識が飛んで・・・」
「おっ、やっと認めた」
「やっ、だから、ちがっ、たしかに眠かったけど断じて居眠りなんかじゃない!」
ある意味息の合った会話のキャッチボール。詳しくいえば、シアの方は全力投球、対してカシルはストレートをほおっている感じである。
セイルは肩をすくめて隅のほうに立っている奏のもとへ行った。彼女は呆然と二人のやり取りを見ている。
「どうした、奏?」
「あ、セイル君。えっと、なんていうかちょっと圧倒される感じで・・・」
奏の隣に立つと、同じく今だ言い合いを続けている二人を見やる。一見ケンカのように見えなくもないが、よく見ればシアが一方的に怒っていて、カシルは簡単にかわして楽しんでいるようにすら見える。
「なんかシアさんの意外な一面見ちゃったような、こんな顔もするんだなぁって・・・」
「カシルの奴が言っていただろう?あいつは極度の意地っ張りだって」
「だって、私と接してたときは優しくて大らかでしっかり者のお姉さんだったから」
「間違っちゃいないだろうが、目の前に映っているのもその本人だ」
カシルに核心めいたところを突かれればぐっと言葉に詰まるものの、それを飲み込んで否定の意を唱える。どうつっこまれても意地で突き通すといったこの姿、意地っ張りと言わずして何と言おう。奏はそんなシアの姿を見ていると、自然に微笑んだ。
「なんていうか、ちょっとギャップあるけどこんなシアさんって可愛いかも」
二人の言い合いが繰り広げられる中楽しそうに微笑む奏に、セイルは息を一つ吐いて「終わるまで避難しているか、うるさいし」と、場所を変えるため書庫から連れ出した。後にはシアとカシルの声だけが残る。
「まったく、オレがせっかく助けてやったのにぃ」
「助けたにしても、もうちょっと他に方法があったと思うんだけど?声掛けてくれるとか、肩叩いてくれるとか」
「あ、やっぱり立ったまま寝たこと認めた!」
「み、認めてないわよ!違う、あれは絶対違う!」
「ふ〜ん」
「・・・・・・何でもないったら。平気よ、平気、大丈夫なんだから、うん」
じと目で見てくるカシルにさすがのシアも少し押し黙る。そんなシアにカシルは小さく溜息をつくと、面白がっていた先ほどの表情とは変わって、今度は優しく穏やかな表情になり、シアの額を軽く小突いた。
「どっちみち、倒れかけたことには変わらないだろう?そのうえランプの準備からして、また夜中まで残業する気満々ってわけだ。その無理する癖も否定すんの?」
「・・・私は、この程度ならまだ平―――」
「とりあえず今日は早く休むこと。わかったかな?」
「でも・・・」
なかなか了承しようとしないシア。筋金入りの意地っ張りは伊達じゃない。カシルはもう一度深く溜息を吐くと、言葉を続けた。溜息を吐くと幸せが逃げるとか何とか言うが、そんなものこの際どうでもいいと思う。
「近いうちに外での任があるかもしれないから、今のうちにしっかり休んで英気を養えってさ。自然王からの言伝ね」
「えっ、自然王からの言伝!?そんな、私に自然王からなんて・・・」
効き目は抜群だった。実際ちゃんと言伝なんて貰っていないが、近々そうなる予定があるのだから多少誇張してもいいだろう。さすがに自然王の名を出されては動揺せずにはいられないだろうから。
「わかった?奏のことは大丈夫だから、安心して休みなさい」
「・・・・・・ええ、わかったわよ。仕方がないけど」
ようやくシアの方が折れてくれた。窓の外からはもう夕暮れの赤い光が差し込んでいて、一日の終わりを示している。別次元にある青界とはいえ太陽や月の光なんかは、次元を超えて下界と同じに降り注がれる。天気なんかは存在しても下界とは別物なのだが。
「本当に世話が焼けるっていうか、何というか・・・」
「何か言った?」
「いいや、何にも言ってませーん」
独り言を聞かれかけてとっさに誤魔化す。ついでに意識が逸れてくれるようにポンポンとシアの頭にも軽く叩いた。しかし奏の反応とは違って、瞬間、眉をひそめる。
「カシル、それもう私小さくないんだからやめてよね。もうここに来て二年、それに十五歳にもなったんだから」
「あれ、もうそんなに経つんだぁ。そういえばここに来たばっかの時、まだオレの肩より低かったっけ?」
しぶしぶ自室に向かう背中に向かって、わざとあおる様な台詞を投げかける。シアもまたわざと「あたりまえよ」と素っ気無く返して書庫を後にした。
何かを言えば、必ず返ってくる反応。それが笑顔でもふくれっ面でも、怒ってても泣いてても嬉しそうでも、それは自分に向けての反応であって・・・
カシルは先ほどまでシアが片づけをしていた机に目をやり、小さく微笑んだ。
「奏ちゃん、お疲れ様、一時間経ったわ。それから今日の作業もここまでで切り上げていいわよ?」
「はーい!」
広いベランダの中央で瞑想に励んでいた奏に、本を抱えたシアが顔を覗かせて、規定時間の終了を告げた。気持のいい風を受けながら、奏は大きく伸びをする。
カシルが地上に降りて奏をスカウトしてきた日から、すでに三日目の太陽が沈みきろうとしている。その間、奏はちゃくちゃくとこの世界のことを学び、スカウトした張本人のカシルやセイルを驚かせる速さで順応していった。相変わらず忙しそうに仕事をこなすシアの手伝いをしながら、毎日一時間の瞑想も欠かさない。
「あれ、シアさんは切り上げないの?」
「ええ、これから中央第三書庫にちょっとだけ用があるから。先にあがってて」
十冊以上もある分厚い本を両手でかつぎ、シアは出口の方へ向かう。よろついてはいないものの、やはり重たいのか、足取りは慎重にゆっくり進める。
「シア、居る〜?」
「きゃっ」
もう少しで扉だというところでいきなり扉が開き、ひょっこりとカシルが姿を現した。驚いて一瞬よろめいたシアだったが、なんとか持ち直して原因を作った本人を睨む。
「カシル、ノックくらいしたら?危なかったじゃない」
「あ、ごめんごめん。・・・ところでシア、明日あたり出立の準備とかできてる?」
「へ?準、備・・・?」
睨まれた本人は大して気にする様子も無く、唐突に自分の用件を述べてきた。キョトンと、わけがわからないといった表情をするシア。もちろん、後で二人の会話を聞いている奏にもさっぱりわけがわからない。それを見たカシルは肩をすくめて言った。
「前に言っただろう?近いうちに外での任があるからって」
「ああ!!」
カシルの一言でシアの思考回路は一気に一つの記憶を呼び起こす。思い出した瞬間、納得と焦りと恥ずかしさが込み上げてきた。
「あ、もしかしなくても忘れてたんだ〜。シアも意外と忘れっぽ―――」
ガツン!
「そ、そんなわけないじゃない!ちゃんと覚えてるわよ///」
少々頬を赤らめながらシアは十冊以上の本を抱えて書庫を出ていった。カシルの言葉を分厚い本の背表紙の衝撃によって封じ込めて。
―――このようなやり取りの一部始終を三日間で何度見ただろう。
驚くこともなくもう慣れてしまったかのように、奏はそんなことを思った。
本当に普段のシアからは想像が難しいほどのギャップである。奏と接しているときはいつも優しくてしっかり者のお姉さんなのに、どうもたまに子供っぽくなったりする。初日に見た意地っ張り爆発のシアは必ず一日一回は見るようになっていた。大抵はカシルとの口喧嘩(やや一方的)なのだが・・・・・・あ、そうか。
そこまで回想すると奏はある仮定に辿り着いた。でもきっと当たっている。
―――もしかして、シアさんのあの表情ってカシル君限定なんじゃ・・・
額を押さえたままうずくまっているカシルに、奏がそっと近づく。
「大丈夫?カシル君」
「痛たたた〜・・・あいつ本気で殴ったよ。よくあんな分厚い本を片手で・・・」
「なんて言うか、今のはカシル君がシアさんを煽ったからのような・・・」
まだ痛むのか、額をさすりながら立ち上がるカシル。奏はふと、彼の手に持っている薄い本の表紙に目を留めた。タイトルらしきものは『海図』と読める。
「海図?そんなものどうしたの?」
「ああ、ちょっと調べものしてたんだよ。明日からの調査に関してね」
「ふ〜ん、カシル君が調べものなんて、なんだか珍しいような・・・」
「あー、ひどいな〜、オレだってちゃんと働くときは働いているんだぞ」
「だって、いっつも書庫に来たってお昼寝してたりシアさんにちょっかいかけたり・・・」
そこで奏は言葉をいったん切る。自分の言った台詞の中から、普段何気なく疑問に思っていたことを思い出した。ここに来てから、いや、正確にはその少し前からの疑問。
思い切って訊ねてみようと、奏はカシルの正面に立った。
「ねえ、ずっと気になってたんだけど、カシル君とシアさんってどんな関係?王直属の補佐官であるカシル君はシアさんにとっては上司みたいなものだけど、二人ともそんな雰囲気じゃないし。・・・もしかして恋人とか?」
奏からのいきなりの質問にカシルは面食らったような顔をする。まだ年端もいかない少女からのストレートな質問、しかし、カシルも顔を赤らめるわけでもなく、ただ驚いていた。やがて目を細めて微笑む。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、どういう?」
「う〜ん、なんていうのかな、最初に会った頃はあいつもあんなんじゃなかったんだけど・・・まあ、いろいろあってね。とりあえずオレの気持ちとしては・・・」
「しては?」
じっと目を逸らさずにカシルの言葉の続きを待つ。やはり奏も年頃の女の子なわけで、こういう手合いの話に興味はあった。それを知ってか知らずか、カシルは少し間を置いて続けた。
「ほっとけないんだよね。本当に何ていうか、あいつ意地張って無茶することも多々あるし、生真面目すぎて根を詰めすぎることもある。いつかぶっ倒れるかもしれない。だからかな、なんとなくほっとけなくてさ」
「ふ〜ん、そうなんだ。たしかにシアさんってそんな感じはあるわよね?」
「だから奏もシアのことよろしくね」
納得したような納得していないような様子の奏。そんな奏の頭をカシルはまたポンポンと優しく叩くと、出口の方へ足を勧めた。しかし、数歩進んだところで一度止まる。
「まさかここへ来て間もない奏からそんな質問来るなんて、ちょっとびっくりしたよ。今度はオレからの質問ね。じゃあ、どうしてそう思ったのかな?」
いつもの飄々とした声の中に、少しだけ落ち着いた優しい感じが混じる。その声を受けて、奏は少し考えてから微笑み返した。
「さっき言った雰囲気っていうのもあるけど、実際はカシル君かな?・・・・・・気づいてた?シアさんを見てるときのカシル君の目、優しさ二割増しになってるのよ」
今度こそ面食らったような驚きの表情を見せる。奏の言葉はそれほどまでカシルに響いたのだ。
知らず知らず、心を表に出していた。
「そっか」と短く答えたカシルは、小さく笑うと奏を残して書庫を後にした。後ろ手に扉を閉めると、そのまま扉にもたれかかる。天井を見上げて深い息を一つ。
『ほっとけないんだよね』
「ってのが三割ってところかな、正確には・・・」